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執筆者の写真みずき書林

見る者/見られる者――ドキュメンタリーについて(下)


前回の続き)


3


この一カ月ほど、ある原稿を読んでいる。

詳しいことはまだ書けないが、イメージと文字表現についてのある程度まとまった量のある文章である。

著者はバルトの専門家であるといえば、その内容がかなり難解な遊戯性をもっていることがわかるだろう。

種を明かせば、いま書いているこれは、今週末に会うことになっているその著者と対話する際の準備運動のようなものとして書いている面もある。


その原稿のなかに、ミケランジェロ・アントニオーニが制作したドキュメンタリー映画『中国』(1974)についての一章がある。

1970年代前半の中国が、ヨーロッパの知識人たちにどのように映っていたか(あるいは映っていなかったか)について、あるいはアントニオーニのドキュメンタリーをバルトがどういうシンパシーをもって読み解いたかについて詳しく書くことは、あまりにも手に余る作業である(し、いまはそのための適切な時期ではない)。ただこの原稿で、アントニオーニが当時の中国をどのように歩き、撮影したかというくだりが非常に面白かった。

それはおそらく、アントニオーニだけに限らず、ドキュメンタリー映画というものの制作作法に関わることであろう。


私は(ほかの多くの物事についてと同様に)ドキュメンタリー映画についてほとんど何も知らない。自分で作ったことがないのはもちろん、それほど多くの作品を観ているわけでもない。おそらく世の多くの人たちと同様、ストーリーのあるフィクションのほうを圧倒的に多く観ていて、それを指して映画と呼んでいる節がある(好きな映画監督はウディ・アレンとスタンリー・キューブリックであり、これまでの人生でもっとも多くの回数を観た映画は、おそらく『スター・ウォーズ』の初期3部作だろう)。

そういう観客として、ドキュメンタリー映画は――その名の通り――飾りも味付けもない純粋な記録である、ということを無条件に前提してしまっている。

カメラは撮影者の一度限りのはじめての経験を切り取っており、その目線は撮影者の〈自然〉で〈普通〉な目線である。写されている者たちはもちろん演技などしておらず、やはり〈自然〉で〈普通〉にふるまっている。編集はただ夾雑物を省くことを主目的としていて、なんらかの意図を付与するためのものではない。――そのようなことを、当然のように考えて観ている。

文芸でいえば小説ではなく日記や書簡のようなものとして、料理でいえばローストやムニエルではなく刺身のようなものとして、素材がそのままのかたちで目の前にあると思い込んでしまっている。


それはある意味では正しく、ある意味ではそこまで単純ではない。

原稿の文章もさることながら(それをここにペーストできないのが残念である)、そこに添えられていた一枚の図版に、私ははっとした。

それはアントニオーニの撮影班が中国の路地を撮っている風景であった。よくある、メイキングのひとこまである。

粗末な路地の突き当りで、撮影班は階段に座って本を読んでいる少女を撮影している(つづけて「貧しいながらも健気な少女が……」と書きかけて、私はその文章を削除した。この手のことを書くと、否応なく政治的にならざるをえないのは確かだが、いまは/ここではそういう方向には行きたくない。文革をめぐる政治的な文章など、きちんと書けるわけがない)。

ここで重視したいのは、撮影班のいでたちである。

5歳くらいの中国人の少女の目の前には、フランス人の男が三人。ひとりは立って女の子の腕ほどもありそうなマイクをかざしている。ふたりは女の子の目の前にしゃがみこみ、カメラを構えている。カメラはいうまでもなく当時のフィルムカメラ、つまり肩に担いでファインダーをのぞくタイプの、巨大なバズーカみたいな代物である。

おそらくこの子にとって、ヨーロッパ人を眼前にするのがはじめてであっても不思議ではない。カメラやガンマイクを突き付けられるのは、ほぼ間違いなくはじめてだろう。

この状況で、少女が〈自然〉で〈普通〉にふるまうことができたとは、とても思えない。

もちろん、完成した作品では、少女に限らず見られる者たちは自然にふるまっているよう見える(そうではない者たちは編集でカットされるだろう)。しかし、見られる者たちは常にこのような見る者たちに取り囲まれているのだから、そこには居心地の悪さや緊張感がないはずはないのだ。


カメラマンと録音係が映っているこの写真は――つまり見る者が見られる者になっているこの写真は、少女の居心地の悪さをいっそう際立たせる。

ここにおそらく、ドキュメンタリーのジレンマと面白さがあるのだろう。

(カメラが何を切り取り、編集でどういう操作を施すかという、見る側・作り手側の意図についてはまた別の重要な観点なので、ここではあえて触れないことにする。ここでは、見られる側の意識的な/無意識的な作為やポーズに絞って話を進めたい)

(注釈が多くて煩雑なことだが、遅ればせながら、ここに私が書いたことは、このアントニオーニとバルトの原稿を書いた著者の主旨とは異なることを断っておく。もちろん全く無関係ではないはずだが、私は著者の論旨を要約して紹介しようとしているわけではなく、著者が意図していることはこのようなドキュメンタリー論ではない)




目の前にカメラがある以上、見られる者がほんとうに自然にふるまうことは難しい。

ドキュメンタリー映画において見られる者は、ある意味では劇映画のそれよりも難しいかもしれない。劇映画であれば、見られる者は100%見られる者として芝居に集中すればいい。自分がいま見られる側であることに、演技者は居心地の悪さなど感じる必要はない。

しかしドキュメンタリーでは見られる者は、普段通りに息づいていることを求められ、前提とされている。

ほとんどの場合、彼らは演技のプロなどではなく、見られることに慣れていない素人である。カメラやマイクに取り巻かれれば(しかもそれが外国人の集団だったりした場合は)、混乱して困惑するのが当然である。


先に「カメラを向けられて自分自身が直接見られる場合には、どういう対処の仕方がありうるだろうか」と書いたが、このケースでは、おそらく有効な対処の方法はない。

あるとすれば、見られていることを意識して、おどけたり格好つけたりして、しかもそういうふうに意識的にふるまっていることを見る側にわかるようなかたちでアピールすることであろうが、見られる者が見る者にすり寄ろうとするそういった意図的なふるまいは、おそらく編集で落とされることになるだろう。

よって可能な唯一の方法は、カメラをなるべく見ないようにして、その場にいるカメラ以外の対話者に意識を集中することしかないだろう。街頭インタビューの場合は、レポーターという見る/見られることの間を往還できる役割がそれを担うだろう。それでもなお居心地の悪さや緊張は消えないだろうが、それ以外に、見られる者が対処する現実的な手段はない。


そこで私がいま関心を持っているのは、見る側の作法のようなものである。

見られる側に対処のしようがない以上、見る側/撮る側が配慮をする必要がある。さもないと、ドキュメンタリーはドキュメンタリーとして成立しない。

あるいは、ドキュメンタリー映画は、どのように手を尽くしたところで――全編隠し撮りでもしない限りは――真の意味での〈自然さ〉〈普通さ〉を映し出すことはできないのかもしれない。もしくは、見られているという〈不自然さ〉や〈普通ではなさ〉まで含めたものがドキュメンタリー映画だという言い方も可能かもしれない。

もうひとつ種明かしをすれば、バルトのイメージへのまなざしについての原稿を読むいっぽうで、やはりこの一カ月ほど、私は同じドキュメンタリー映画を繰り返し観ている(もしかしたら私が観た映画の最多回数は、もはやスター・ウォーズではないかもしれない)。このことについてはこのブログでも度々書いてきた(週末に会うときには、そのバルトの著者にも劇場に行くことをしつこく勧めることになるだろう)。


先ほどはアントニオーニの中国の子どもについて書いたが、ここではそれに対応するものとして、マーシャルの老人について書いておきたい。映画の終盤に、向こうを向いていた異国の老人がカメラのほうに振り返るカットがある。そのとき、画面の奥に向かって笑っていた老人は、振り向いてカメラがこっちを見ていることに気づき、顔をこわばらせる。時間にして1秒にも満たないであろう、編集でカットすることもできた一瞬だったかもしれない。しかしこの老人がカメラに向かって居心地悪そうに顔をゆがめた瞬間に、私たちは見る者から見られる者へと逆転させられる。

老人は、こちらを見ている。

その老人の反応が、意図的なものではないとっさの反応だったことは、見ていればわかる。そのとき、見る者であったはずの私たちは、老人の不機嫌そうな視線にさらされて見られる側へと転じ、瞬間的に居心地の悪さを感じることになる。


同じ作品を集中的に観ること、それゆえに毎回注意する点を変えながら、自分に思いつく様々な観点から観ることは、見られる者にとっては、様々な観点から見られることを意味する。フーコーを持ち出すまでもなく、一方的な視線は特権的である。

しかし見られる者は見る者とはちがって、そのたびに態度や姿勢を変えることはできない。彼らは永遠に一回限りの固定化された姿としてそこにあり続ける。カメラを向けられた彼らはおそらく居心地の悪さや普段とは違う違和感を抱いていて、しかもそれに対処する有効な方法も持ちえないまま、そこにい続ける。


だからこそ、より強い立場にある見る者のありかた(カメラワークと編集)が重要になってくる。

そしてそれがときに、見る者/作り手の意図からもはみ出す時間を作ることがある。そのとき、見る者と見られる者は逆転することがある。

アントニオーニについての原稿とマーシャルについての映画には、直接的な接点やつながりはなにもない。

しかし片方はメイキング写真とテキストのかたちで、もう片方は意図せざる目線というかたちで、見る者との距離を詰めてくる。

中国の路地裏の撮影班の写真と、マーシャルの老人の一瞬のまなざしは、見る者/見られる者の立場の逆転と距離感のゆらぎを伝えてくる。




……ここまで書いたところで、結局のところこれは〈完全に自分自身のための文章〉などではなかったことに気づく。

〈私〉+常体を用いたとしても、やはり私は特定少数の誰かに見られることを念頭に置いている。


このテキストをここまで見たあなた――そう、あなた。見てくれてありがとう――は、僕に見られている者でもあるのだよ。



最後にもうひとつ種明かしというか内幕を書いておくと、このテキストは妻が帰宅するまで(最近妻は忙しい)、塩豚ときのこ、じゃがいも、キャベツ、ペコロスの蒸し煮を作っている3時間の間に書かれたものである。

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