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  • 執筆者の写真みずき書林

過去でも未来でもなく


昨日は荻田泰永さんの冒険研究所書店で読書会。

総勢8名。

ひとりずつ本を持ち寄って紹介する形式。

持ち寄る本のお題は「冒険を感じさせる本」。


僕は、

網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』(ちくま文庫)

伊丹十三『日本世間噺大系』(新潮文庫)

を持って馳せ参じました。


碩学による歴史学の名著と、日本を代表するマルチタレントの軽妙な聞き書き集。

共通点は、天皇制のなかで聖別/差別を論じているところ。

網野の神人・供御人制と、伊丹の八瀬童子への聞き書きが、時代も本のジャンルも形式も超えて共鳴し合う。

そういう「読書の冒険」の一例として、この2冊の組み合わせをプレゼンしました。


そのほか、参加者の皆さんが紹介した本を一堂に並べたのがこちら。

「冒険を感じる本」とはいえ多種多彩であることがわかります。




さてそのなかで荻田さんが、

「過去の精算でもなく、未来への欲望でもなく、〈いま〉だけに没入していく行為」

ということを話されていました。

「その行為のなかで、主観と客観の境界が溶けあっていく感覚」

ということも。

それは、ただひたむきに極地を歩いているときの感覚に近いものであるとも。

(荻田さんは一体どの本を紹介しながら上記のようなことを語ったのでしょうか。わかるでしょうか?)


過去に積み残してきた何かを克服するためではなく、未来に何かを残そうという願望でもなく、ただひたすら〈いま〉にフォーカスする。

そのような行為を――より正確にいえば、行為を通して得られる忘我のような感覚を――得ることができれば、と思います。


それはおそらく、大袈裟な行為ではないでしょう。

もし三昧境のようなものがあるとすれば、たとえば一歩ずつ足を前に出しつづけることや、目の前の岩を素手で少しずつ削り取っていくような、倦まず弛まずそのようなシンプルな行為を営々と続けていくなかに、それはあるのかもしれません。


過去は思い出の中にしかありません。

未来は、僕の場合はとりわけ、あるという保証はありません。

今さらありきたりなことを言いますが、確実にあるのは〈いま〉だけです。

それを十全に味わえるようになりたい。




明日は――と早くも未来の話をしますが――半年間の区切りとなる8クール目の治療のスタートです。

憂鬱でもしんどくても、その〈いま〉を十全に味読することができるでしょうか。

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