最近、仕事と関係のない趣味の読書をほとんどしていないなと思って、なんとなく谷崎潤一郎の『細雪』を読み直しています。再読するのは、大学時代以来でしょうか。
大したことは何も起こらないのに、なぜこうも面白いのでしょうか。
この作家は、どうしてこうも心理の綾を描きながらそこに溺れることなく、間違いなく感情の筋道をフォローしていけるのでしょうか。
もちろん、女性の描き方や男女の差を当然視しているところなどは、今の視点で読めばツッコミどころ満載ですが、そういう読み方は他の誰かにお任せします。
細かくささやかな感情の機微を描きながら、決してブレることなく、思考の軌跡を描写できるのは、やっぱり只者ではありませんね。
源氏物語を彷彿させる、大らかにたゆたうような、繊細にうねるような展開は、小説を読む楽しみをしみじみ感じさせてくれます。
かつてクノップフ社のゲイリー・フィスケットジョン(だったと思う。記憶違いかもしれない)が、オフィスに『細雪』の英訳本を何セットか置いていて、この本がいかに素晴らしいかと説明しながら来客に配ることにしていたというエピソードを村上春樹がどこかに描いていましたが、さもありなん。
(ちなみに英訳のタイトルはThe Makioka Sisters。身もふたもないタイトルである)
この本を読みながら、二日ほど前に是枝裕和の『海街diary』を再見しました。
これもまた、特に何が起こるわけでもないのにじっと観てしまう、日本映画らしい日本映画です(日本映画は、ハリウッドの向こうを張ってCGを駆使したアクションや一大スペクタクルなど作らなくても、こういう淡々としたしっとりした作品に持ち味を発揮できると、個人的には思います)。
この作品もまた『細雪』的な、震えるような感情描写を大事にした作品です。
とくに意識しないでこのふたつの作品を読んだり観たりしたのですが、どうして人は、四姉妹という設定に惹かれるのでしょうか。
『若草物語』という名作もありますが、洋の東西を問わず、我々はなぜか四姉妹というものに萌えるようです。ポッキー四姉妹というのもありましたね。
そういう〈四姉妹もの〉は、しっかり者で折り目正しい長女、中心的な話者になる活発な次女、控えめでおしとやかな三女、元気でませた四女。というかたちを基本にして、そのバリエーションを作っていくことが多いようです。
『若草物語』は正しくこのパターンです。四姉妹ものの元祖といってもいいでしょう。
『細雪』では長女の影がやや薄く、次女が活発というよりは涙もろくやや慌てやすいという意味で饒舌なキャラですが、基本はこの構造です。
『海街』では三女と四女の役割を逆転させていて、異分子としての四女のませ方と控えめさにツイストがあり、そのぶん三女にコメディ的な役割を振っていますが、やはりこの構造の変奏と言っていいでしょう。
四姉妹ものは、いろんな性格や感情描写をほぼ等しいバランスで思う様に描けるので、作家にとって表現しがいのあるモチーフなのかもしれません。
親密なカルテットを中心に据えることで、控えめな三女が意外と頑固とか、しっかりものの長女が自分のことになると気弱になるとか、姉たちにあこがれ続ける末の娘のやりきれなさとか、そういった美しさや哀しさの表現のバリエーションのほとんどすべてに対応できる気がします。
これが男の四兄弟だと、歴史的には藤原四兄弟とか島津四兄弟とかいますが、名作といわれる作品はあまりないようです。男の子は四天王というものが異常に好きですが、多くの場合、四天王は強者として登場し、やられ役になっていく運命にあります。四天王は主人公にはなれないのです。
ああ、『カラマーゾフの兄弟』があるか。
しかしスメルジャコフは別枠扱いだからな……。
男の兄弟のほうは、3+1のアンサンブルのほうが多いような気がします。
つまり、コアな三人組にもうひとり異端者が加わることで、、関係性が面白くなる構造ですね。
上記のカラマーゾフもそうですし、『三国志』も劉備・関羽・張飛+諸葛亮。『三銃士』もアトス・アラミス・ポルトス+ダルタニアン。『最遊記』も孫悟空・猪八戒・沙悟浄+三蔵。
ヒトはなぜ四姉妹もの、あるいは三兄弟ものに惹かれるのでしょうか。
それらは物語構造上のひとつの典型なのではないかと思いますが、そういったことを研究した本ってありましたっけ??
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