3つの作品をひととおり見るのにかかる時間は30分程度です。
登場人物は全員で5人(もしくは4人)。
4枚の画面。
短い時間とシンプルな道具立ては、しかし観終わった後に、ささやかだけどいつまでも気になる痛みを残します。
紙で指先を切ったときのような、激痛ではないけれど気になって仕方がない違和感です。
「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U」では、作家本人がまばたきをする映像がずっと続きます。
映っているのが作家本人であることは、僕はたまたま一度だけ会ったことがあるからわかるだけで、情報としては与えられません。そもそも、それ以外のどのような情報も、作品内には表されていません。
彼女は「I CAN SEE YOU」をモールス信号に変換し、まばたきによってそれを伝えているのですが、そのことも一切説明がなく、事前にテキストで情報を得ていなければ、たんに女性がまばたきをしているだけの映像です。
まばたきを続ける女性の表情は少しずつ変化していき、必死に訴えているような、怒っているような、哀願しているような苦悶の表情をみせていきます。
でもモールス信号を理解できない我々に、彼女のまばたきはなにも伝えてきません。
「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U」では〈伝わらなさ〉だけが伝わり、メッセージは一方通行です。
しかもそのメッセージは間違ってすらいます(作家にはわれわれは見えていません。我々が彼女を見ているのです)。
以降、「Jokanaan」「Social Dance」でも、一方的な、あるいはすれ違い、断絶する関係が描かれます。
それぞれの作品内容を詳述するのは避けますが、モーションキャプチャーによって生み出されたサロメが、次第に実態であるはずの男性の踊り手を離れていく「Jokanaan」は、そもそもが一方的な愛の悲劇であるワイルドのこの作品の構造をいっそう強めるようです。
男性のほうがヨカナーンに見えてきます。ここでは男性は、自らが作り出し100%のシンクロ率を誇るはずの女性に愛を告げられ、切り離されていく彼女の狂気に晒され、翻弄されていくように見えます。
そして彼女を振り払うように、モーションキャプチャースーツを脱ぎ捨てます。
彼がスーツを脱ぎ捨てると、彼女は奇妙なかたちにねじれ、ありえない姿勢で地面に転がったまま、それでも歌い続けます。
このあたりの、感情を描くために技術を異化させる手法は、小泉明郎さんの《Sacrifice》にも通じるものを感じました。
あの作品では、VRカメラを取り外すことで、鑑賞者である我々は生首のような存在になって、床から世界を眺めることになります。
スーツを脱ぎ捨てることで奇妙に変形した百瀬文のサロメは、図らずも小泉明朗の生首とつながるものでした(生首がヨカナーンを想起させるアイテムであることは言うまでもありません)。
さらに個人的なつながりを感じたエピソードを重ねておくと、この展示に向かう前後で、僕は同行のひとたちと「自分と全く同じ異性がいたら、付き合えるか」ということを話していました。
もちろん冗談としてですが、僕は「自分とまるで同じ異性がいれば最高に気が合うだろうし、付き合いたいですね」と応えました。そのときは単なる軽い冗談でしたが、この会話そのものが、やはり「Jokanaan」に多少影響されていたのかもしれません。
いまこのテキストを書くために昨日のことを思い出していて、やはり気付いたら指先が切れていたかのような微かな痛みがあります。
最高に気が合うはずの愛の対象が乖離していき、関係が危ういものになっていく。
もし自分と付き合ったら、やはりうまくいかないでしょう。
古典である『サロメ』と最新のモーションキャプチャーを組み合わせ、生身の男性とデジタルな女性を組み合わせたこの12分間を、僕は感情の加入力によって最愛の相手との関係がuncontrollableになっていく過程と解釈しました。恐ろしいものです。
一方的な、あるいはすれ違い、断絶する関係は、最後に配置された「Social Dance」でさらに強調されます。
ここでは男女ふたりが口論をしています。内容は、男女関係でよくある、犬も食わない喧嘩です。
そしてそのすべてが、手話で行われます。
観客はヘッドホンをつけて、部屋のベッドで行われるふたりの口論を観るのですが、手話であるために、ヘッドホンから流れてくるのは手が合わさる時や服がこすれる音、風のそよぎなどの自然音だけです。声は聞こえません。
手話を解さない多くの人は、字幕によってしか内容を知ることはできません。
そしてその内容は、手の動きによってしばしば中断されます。
通常、相手の手を握ったり、両手で包み込んだりするしぐさは、親愛の情を示します。
でも手話の場合、同じしぐさが相手の発話を中断させる役割も果たすことになります。
その動作は親愛の表現なのか、拒絶なのか。
相手をなだめているのか、阻止しようとしているのか、途中からわからなくなります。
目を背ければ会話が成立しないというのも、手話の特徴です。
手話での会話は、常に相手のほうを見ていなければなりません。視線を外した瞬間、会話は成り立たなくなります。
映像を見ながら、我々は、たとえば落ち着くために視線を外に投げる、相手の言うことを咀嚼するために目を閉じる、そういった何げない動作が、強い意味に変換されることに気づきます。
(声での会話も耳をふさげば遮断できますが、両耳をふさぐ、という動作はそれ自体がきわめて強い拒絶の態度であり、どんなに激しい喧嘩であれ日常生活でこの動作を実際にする人はほとんどいないでしょう)
相手の手を握るという優しい動きが阻止へと反転し、目線を外すだけのさりげない動作が拒絶へと強調されます。
我々はそのプライベートで過敏な異形の口論を覗き見て、いたたまれない気持ちになります。
百瀬文の作品群は、居心地の悪い違和感を残します。
コミュニケーションの不全や過剰が引き起こす、関係性の歪み。
我々の暮らしの中に危うい陥穽として常にあって、でも普段は見て見ぬふりをしている、言ってみれば日常的な地獄の一端を、彼女は暴きます。
モールス信号やオペラ・手話と、そのツールは多彩で、モーションキャプチャーなどの技術を駆使した方法はクレバーで鋭利です。
クレバーな方法で描かれる、多彩で居心地の悪い関係性の地獄。
ここへきて「I CAN SEE YOU」という作家からのメッセージも、不気味な視線として意識されてきます。
鋭利な紙で切った傷は、いつまでもヒリヒリして、しかもなかなか治りそうにありません。
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