昨年の夏、まだ自分の病気のことも知らなかった頃。
あるイベントの準備で、本の編著者、イベント会場の小屋主さんと打ち合わせをしたことがあります。
と、特に名を伏せる必要もないので書きますが、大川さんと森岡さんと、我が家で打ち合わせをしていました。
どういう話の流れかまったく憶えていないのですが、その時に僕は、
「自分用には使わないことばがふたつあります。ひとつは「愛」でもうひとつは「正義」です」
と発言しました。そして「正義」はともかく「愛」については、ふたりの猛反発にあったのでした。
残念ながら、僕はあまり長生きしないかもしれない。
この先も「自分は正義だ」とは絶対に言わないでしょう。
僕は自分が考えているある種の「正しさ」をささやかに守って生きていきたいと思っています。でもそれは極めて個人的なもので、自分は社会的に正義の側にいる――その対向として誰かが悪の側にいる――ということでは断じてありません。
では、「僕はあなたを愛している/愛していた」と発話するときは来るでしょうか。
僕はことばを商売道具にしているにもかかわらず、このことばだけは今ひとつ信用していないし、うまく使いこなせていません。
でも遠くないいつか、僕はこのことばを自分用に使わないといけないと考えています。
ひとりひとりの人生を、たとえば箱に入ったプレゼントのようなものだと考えてみます。
ひとりひとり、箱の大きさも形も違う。中身も当然、違います。
僕の箱には何が入っていたか。
家族・友人・知人・著者……あらゆる意味の人間関係に恵まれました。僕の箱の一番広くていいスペースに詰まっているのはそれです。これだけはどこに出しても自慢できる。
仕事にも恵まれました。前職ではたくさんのことを学び、今の会社を立ち上げてからはさらに楽しくなりました。誇らしい本とともに、そういう喜びもふんだんに詰めあわされています(でもお金はそんなに詰まっていない(笑))。
自分の家を自分の好きなようにアレンジしたり、料理を作ったり、洗濯や掃除をしたり、そんなふうに自分にとって居心地の良い空間を作る時間にも恵まれました。これは地味ながら貴重なことです。
かわいい犬だっています。
そういったものが、わりと整然と丁寧に詰め合わされているのが、僕の人生という箱です。
でもその箱は、そんなに大きくはないようです。
もうちょっと大きかったらよかったのに、と思わないこともありません。
しかしその箱には、僕がそれと知らずに受け取っていた愛情が目一杯詰まっていました。
箱が小さいことがわかって、やっとそれに気づきました。
以上、このテキストは、松本智秋さんの文章にインスパイアされて書きました。
そう、若い頃は照れくさくて使えなかった。
いまも照れくさい。
でもそれはどうやらそのへんにあるらしい。
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