• みずき書林

More imagination, More peace


「戦争に反対する」というのは大前提であるとして、ここで「戦争」ということばに含まれるのは何か。

それは前線で、あるいは住宅地・市街地で人が死ぬというだけにとどまらない。

研究者ではないので議論が雑になるのはご容赦いただくとして、僕が思うに、歴史から学ぶべきことは多くある。

そのうえで、中長期的に注視し続けること、忘れないことが、「戦争反対」ということばには含まれるべきであろう。


僕が本を作っていて知り得た歴史から学ぶべきこと。あるいは繰り返す歴史。


・市民へ武器を渡す

ウクライナ政府は首都の市民に武器を渡したらしい。

そのことがロシア軍への抵抗に大きな力となるのは間違いない。

しかしもし戦争が終わったとしても、市民に流出した銃器を回収することはほぼ不可能であり、それは戦後社会の犯罪やテロの大きな温床になりうる。このことは湾岸・中東戦争で実例がある。


・ロシアへの経済制裁

日本も含めた国際社会は、いまのところロシアへの経済制裁で解決を図ろうとしている。それで解決できれば言うことはない。

しかし太平洋戦争開戦時に同様の経済制裁を受けた日本が窮鼠となったように、経済制裁が奏功する可能性は、よくて半々といったところだろう。

さらに言えば、経済制裁は結局のところ市民に犠牲を強いることも忘れてはならない。為政者とその眷属が飢えたり困ったりするのは最後の最後だ。

ヨーロッパへのガス供給の40%はロシアからの輸入だという。だとしたら、今回の切り札とされているSWIFT排除が、各国の市民にとって困難な状況を生むこともありうるだろう。


・プーチンがゼレンスキーへの暗殺団を送り込んだ&クーデターを呼びかけた

ネットニュースレベルだが、プーチンはゼレンスキー大統領を排除するために暗殺団を首都に送り込んだとか。

あるいは会見で親ロ派の軍部にクーデターを呼びかけたとか。

暗殺とクーデターで相手国を混乱させるのは常套手段だが、それが戦後社会に残す禍根は限りなく深く暗い。実例は枚挙に暇がない。


・情報の錯綜

SNSという新たな情報収集・拡散ツールが世界的に普及した中でのはじめての大規模な戦争、という意味では、今回は新しい側面がある。

しかしSNS全盛だからこそ、古典的なデマ・偽情報・虚偽報道の判断はより困難になっている。

SNSが世論形成に強い力を持っていることは間違いない。それは希望でもある。

しかしその即時性と拡散性の高さは危険でもある。何のことだかわからない人にはひとこと「大本営発表」といえば事足りるだろう。

ここに書いたことの根拠となった情報も、すべて疑わなければならない。


・死者数の報道

ウクライナの、あるいはロシア軍の(今のところの)死者数を見聞きして、一瞬でも「コロナよりマシ」と思わなかった人は稀ではないだろうか。

もちろん、死者数が多いことは悲劇だ。でも死者数と悲惨さは、政治や経済効率の面からはともかく、少なくとも倫理の面からは正比例しない。

ここでは歴史もさることながら、文学もまた重要な想像力を提供するだろう。

近いうちに自分が死ぬかもしれないと想像してみること。

そんなことは起こりえない? まさか。そういうことは起こるんだ。

死は、ある日突然、隣に立つ。泣く時間が残されているなら、まだしも幸せだ。

そういうことは起こるんだ。

死者数という「数の論理」に囚われるならば、たとえば南京をめぐる議論のように泥濘にはまるだろう。


・移民、難民

数千人が首都から脱出して国外に避難しているという。

国連の試算によると、避難民は最大400万人に達する可能性もあるという。

日本は島国であるという環境も手伝ってか、避難民や移民に対して非常に鈍感なところがある。

しかし実際には、先の戦の敗戦時に、満洲・ふたつの中国・ふたつの朝鮮・東南アジアなどなど旧帝国領からの引揚げを体験している。

あるいは日本で暮らすことを/大陸に留まることを決心し、ふたつの祖国をもつ人々を大量に生み出しもしている。

手前味噌だが、3月に刊行する新刊『帝国のはざまを生きる』では、そのような人びとの2世・3世がどのように生きているかを扱っている。

つまりたとえ戦闘行為としての戦争が終わったとしても、難民・移民問題は終わらないということだ。それは続く世代に大きな影響を残していく。

そういう意味で戦争は「終わらない」。


以上、ざっと思いつくままに、繰り返される歴史としての戦争の諸相を殴り書きしてみた。

このようにして戦争は過去と同じ顔をしてやってきて、未来にまで終わらない影響を残す。

「戦争反対」というときに、単にいまのコンバットゾーンの話をするだけでなく、過去にも未来にも伸びる中長期的な状態としての「戦争」を考えなければならない。


実際に戦争が起こるとき、過去を見ても未来を見ても、非常に虚しい。

我々は過去からなにを学んだのか。

我々の未来に希望はあるのか。

しかも事態はどこまでも複雑で、全貌を理解することは研究者や専門家にも難しい。

我々にできることはあるのか。


そのときに「戦争反対」という意志表明をすることは――たとえ徒労に思えたとしても――我々普通の人びとができる唯一の意思表示だろう。


上述のように、この戦争は世界的にSNSが席巻している環境下での大規模戦争であり、そこが今までとは違う。

情報の錯綜という問題はあるだろう。しかしそれ以上に、希望としても機能している。(少なくとも僕のタイムラインではそのような投稿が散見される)

SNSを利用して、国を超えた市民の連帯が生まれる可能性はある。

実際、ロシアでも(あのロシアでも)反戦デモが行われているという。

ロシア人市民がタイムライン上に謝罪と恥ずかしさを投稿している。

そういう人々の連帯が、戦争を止める可能性は、ある。

SNSの投稿もそうだし、このように駄文を連ねてネットに放り投げる行為もそうだろう。

やらないよりはやったほうがいい。


そのときには、ややこしい歴史的背景や政治的都合はいったん棚上げにしていいと思われる。

もっとシンプルに、自分が誰かに殺されるところを想像すればいい。

たとえばいま突然に爆弾がさく裂し、天井が崩れて下半身が潰される。動けない。瓦礫が落下してきて頭蓋骨を砕く。それでもあなたは生きている。何が起こったのはわからない。ただ間もなく死ぬことはわかる。どこかすぐ近くで、あなたが一番大切に思っている人の悲鳴が聞こえる。でも首を動かして声のほうを向くことすらできない。

そんなふうに死にたいか。

実際に、そんなふうに死んでいる人がいることをどう思うか。



最後に、「戦争反対 No War」というのはスローガンとして定着はしているが、否定形であるところにいささかの積極性のなさを感じなくもない。

否定形であること、つまりは主戦論に対するカウンターであることに、つけ入られる隙がある。

たとえば「More imagination, More peace」とでも呟くのはどうか。



※以上、このテキストは従来の記事以上に推敲をしていない。まったく見直さないで書きっぱなしをアップしている。乱筆乱文乞御容赦。

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昨日は田中さん主催の日記文化の研究会。 NHKスペシャル「新・ドキュメント太平洋戦争』の制作ディレクター・長野怜英さんと酒井有華子さんの発表ののち、討論。 とても刺激的な話だった。 個人的に面白かったのは要約すれば2点。 1点目は、何度も書きもして喋りもしていることだけど、つまるところ〈顔が見える〉という点に、僕は感興を憶えるということ。 「NHKが作った大作ドキュメンタリー」といわれれば、膨大な