いまから何年も先のことだけど
ぼくが歳をとって髪が薄くなっても
まだバレンタインや誕生日に
お祝いやワインを贈ってくれるかな
深夜の3時近くになってまだ帰ってこなかったら
ドアに鍵をかけるかな
まだぼくを必要としてくれるかい
ぼくを気にかけてくれるかい
ぼくが64になっても
(the Beatles When I'm 64)
3〜4年前から、趣味でウクレレを弾いています。
簡単なコードをいくつか覚えて、歌いながら弾いて遊んでいます。
ウクレレも歌も下手くそですが、それは特に問題ではありません。誰に聴かせるわけでもなく、自分で楽しめればそれで十分です。
今まで聴いてきたロック・ポップミュージックを中心に、レパートリーは100曲くらいはあるでしょうか。もちろん、ウクレレ アプリでコードと歌詞を見ながら弾くわけですが。
去年の今頃に病気がわかり、それから歌えなくなった曲がいくつかあります。
冒頭に訳したBeatlesのWhen I'm 64もそのひとつです。
ポール作の、チャーミングなラブソングです。
ぼくが64歳になることは、おそらくありません。
妻が64歳になったときに、ぼくがそばにいることはないでしょう。
自分で弾いて歌って自分で泣いていれば世話はないのですが、この曲を弾くと涙が滲んできて、最後まで歌うことができません。
※
先日、実家から両親が上京してきました。
1年前から、コロナ禍のこれまでは考えられなかったほど頻繁に、両親と会うようになり、いろんなことを話すようになりました。
この週末は、墓のことを話しました。
結論から書いてしまえば、実家のある岡山の田舎の累代の墓に入りつつ、一部を分骨して東京で樹木葬にするというアイデアに落ち着きそうです。
これから詳しく調べてみないといけませんが、信仰がまったくなく、戒名などにもまるで関心がないぼくとしては、一代限りで宗教とも可能な限り距離をとれる樹木葬というのは、なかなか悪くないと思っています。
本当はそのあたりに適当に散骨してくれても、個人的にはまったく問題ないのですが、散骨は散骨で手続きが面倒くさそうで、かつ、やはり何らかの具体的な手を合わせる先(という言い方の信仰臭に抵抗があるなら、何らかの目を閉じる先)があるといいなという妻の希望もあります。その気持ちはわからなくもありません。
いまはそんなことを家族で話し合っています。
それはなんだか凄まじいことだな、と思うのです。
(誤解のないように書いておきますが、まだ元気で気持ち的にも切羽詰まっていないときに、こういうことを話し合っておくことは大事なことだと考えています。ぼくは性格的にも、こういうことは先に見通しを立てておきたいタイプです。昨夜は気付いたら、通夜の夜のクリームの散歩をどうするかについて妻に話をしていて、さすがに失笑しました。ぼくは取り越し苦労の多い、計画を立てるのが好きな、そういう性格なのです)
ここでいう「凄まじさ」というのは、自分が死んだ後のことを皆で具体的に組み立てる、ということの一種独特な特異さを指します。
もちろん多かれ少なかれ、病気であれ高齢であれ、死を予期する時間を許された者たち皆が通る道です。こういうことを考え話し合うこと自体はありふれた風景かもしれません。
しかし実際に自分がその場に身を置いてみると、いささか感慨があります。
当事者でありながら、もっとも無関係。
絶対にそこにはいないことが大前提でありながら、話題の中心人物でもある。
自分がどこの墓に入るか、通夜をどうするか、今のうちに意思表示して決めておかないといけないことです。同時に、心の底まで浚ってみれば、これほど生きている自分と隔たりを感じている話題もそうはありません。
死の準備とは、思っていたよりも具体的で即物的な側面を持っているようです。そしてそのようなひとつひとつに対処していくのが、家族というものの最終的なかたちのようです。
※
あなたも歳をとるんだよ
もしイエスと言ってくれるなら
ずっと一緒にいるよ
冒頭に引用翻訳した部分の続きの一節です。
あなたが歳をとっても、ぼくは歳をとらない
残念だけど、ずっと一緒にもいられない
ただ、通夜の夜には、棺に入る前に、クリームの散歩について行こうかな
そのあとは、樹の下で本でも読んでいようか
まだぼくを必要としてくれるかい
ぼくを気にかけてくれるかい
あなたが64になっても
以上、がんセンターの2階B外来のウェイティングスペースにて記す
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