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  • 執筆者の写真みずき書林

『わたしは思い出す』と自分の本


『わたしは思い出す』(AHA! Archive for Human Activities 人類の営みのためのアーカイブ編、2023年)を読了。


東日本大震災の前年に生まれた子どもの11年分の育児日記を再読することで、311を従来とはまったく違った観点から見つめ直そうとする、展示と書籍からなるプロジェクトの成果物。

育児日記そのものを収録しているわけではなく、それを震災から10年後に再読した主婦かおりさん(仮名)の思い出すこと、憶えていることを聞き書きしている。そのテキストは膨大な量にのぼる。

本文の大半を占める、11年分のその回想の記録を読み進めていく。




僕には育児の経験もないし、震災当時は東京に住んでいたので、仙台で被災したかおりさんとは震災体験の質も違う。そもそも東北にゆかりもない。性別も違う。

まるで異なる環境にいた赤の他人の記憶が、しかしなぜこんなに引き込まれるように読めてしまうのだろう。単に、震災というあのとき日本に暮らしていた人たち全員が共有した体験があるからとは言えない。この本は震災体験を中心に描かれたものではなく、中心に据えられているのはあくまでかおりさんとその家族の生活史だからだ。震災とその爪痕は、彼らの暮らしのなかで時折顔を覗かせるにすぎず、記述の大半は暮らしの些細な細部であり、そこでかおりさんたちがどう振舞ったかに割かれている。


僕は相当に分厚い本書をある人にお送りいただいてから、膨大なテキスト群を1日に2年分のペースで読み進めていき、1週間足らずで読了した。

その間、退屈することはまったくなく、淡々と、しかし実に興味深く読み進めていった。


繰り返すが、縁もゆかりもなく、環境もずいぶん違う人が自分の11年間を振り返った、個人的な生活史である。なぜそのような内容が面白く感じるのか。不思議といえば不思議だ。


先に結論めいたものを書いてしまえば、つまるところ、我々は他人とどれだけ一緒かということを知ったときに、感慨を抱くということなのではないだろうか。かおりさんと僕の人生が直接交差することはない。でも、たとえば2018年4月11日、かおりさんはラジオを聴きながら、手紙の処分と書類の仕分けをやっている。僕の会社の創業日はその2日後。このことは何らの接点のなさを強調するとともに、われわれが同時代を淡々と生きていることをも表している。

たとえば震災から1年後の3月12日、かおりさんと長女のあかねはアンパンマンミュージアムに行っている。帰宅してからはリビングの室内遊具セットで遊んでいる。翌13日は僕は34歳の誕生日。34歳といえば、前職で社長になった年だ。

やはり接点はなく、僕の人生も彼女の人生も、淡々と過ぎて行っている。

要するに、人生とはそういうものであり、そしてだからこそ、そこに曰く言い難い感動や感慨があるということなのだろう。ひとつの人生には歴史があり、ことばにならない、あえてことばにしない思いがふんだんに詰まっている。そこが面白い。


偶然、同時進行で読んでいた『歴史する! Doing history!』(福岡市美術館、2017年。この本もある人からの頂き物だ)のなかで、岸政彦が似たことをを言っている(まあ岸氏は同書に限らず、どこでもこういった趣旨のことを繰り返し語っているが)。

「歴史というのは、フォーマルな、教科書的な歴史もいいですけど、一人ひとりの中に歴史があるんだよということを、僕はそれがいちばん面白いという信念を持ってやってる」

「一人ずつ歴史なんです。だから、歴史がタクシー運転してるんですよ。歴史がゴーヤチャンプル作ってるんですね。歴史が民宿やってるわけです。歴史が県庁で公務員をしているんです」

そのような個人の営みに触れるときに、我々はその人の中に歴史を感じ、ひるがえって自分の中にも流れる歴史の時間を意識するのだろう。


以下、手前味噌な記述になるが、僕はいま自分の本を書いている。

この5年間の約1200件のブログから100件ほどを抽出し、それにいまの自分の思いや考えを書き下ろしで加筆していくという構成になっている。

これは『わたしは思い出す』と似たような構成である。かおりさんは育児日記を再読していまの思いを語る。僕はブログを再読して、いま考えていることを書いていく。いずれも過去の自分との対話という意味で共通している。

僕の本はいまとりあえずひととおりの書き下ろしを終え、編集者に送ってあるところだ。連休明けに打ち合わせをして、今後の修正方針や書名などを検討することになっている。

ひとまず一巡目を書き切ることを目的としてこの2カ月程集中して書いていったが、途中で果たして面白いのかどうか、自分ではわからなくなっていった。そのわからなさを端的に言うと、あまりにも個人的な内容で、パブリックにする必要があるのかどうかわからなくなっていった、ということだと思う。

一体この個人的な記録をパブリッシュすることで、誰が面白がってくれるのだろうか、ということだ。

そんなことを思い悩みながら書いているときに、『わたしは思い出す』に出会い、とても勇気づけられた。上記のとおり、「個人の記録は面白い」ということに気づいたからだ。

おこがましいことだが、『わたしは思い出す』が面白いなら、僕の本を面白いと思ってくれる人も一定層いるのかもしれない、と思えた。

その面白さを言語化することはなかなか難しいが、ひとりの人間が生まれ育つところを見つめ続けたかおりさんの11年間が個人の記録・記憶として読みごたえがあるとしたら、僕のささやかな5年間の記録と記憶――僕は逆に死にいこうとしている――もまた、誰かに何かを感じさせるものになっているかもしれない。

いまはそう信じて、書き進め、ブラッシュアップしていくしかない。


ところで、『わたしは思い出す』は誰が著者かというと、語っているのはもちろんかおりさんという仮名の主婦なのだが、それを一冊に編み上げるプロセスを考えると、実質的な編集者・編者は、プロジェクトを主導し、形式を整え、膨大な聞き取りをしてテキストを整理したAHA!の松本篤さんということになるだろう。

その松本さんが、巻末に「わたしは思い出す、を思い出す」と題して、この実践のプロセスを振り返っている。このテキストが実にいい。まさに保苅実が言う「歴史実践」の具体例といえようか。

そのテキストのなかで、松本さんがこのようなことを書いている。

「時間的・空間的な「遠さ」や「ズレ」の中に〈対話の可能性〉を見出そうとする私たちの活動の真価を汲んだうえで……遠い未来、遠い土地にも届くメッセージを、しがらみのない立場から再設定する」

大阪での活動を起点とし、直接311を身近に体験しなかった松本さんも、自分が東日本大震災を扱った展示と書籍を作ることに、当初抵抗を感じていたという。しかし本企画の展示会場となるせんだい3・11メモリアル交流館のスタッフと交渉していくなかで、上記のような思いを抱くに至る。

ここにも保苅実のキータームのひとつである「ギャップごしのコミュニケーション」が遠望される。遠さやズレがあることを前提として、そのうえでそのようなギャップを埋めようとするのではなく、ギャップごしに対話し、手を伸ばし合う努力をすること。

『わたしは思い出す』ではそのギャップは、震災体験の有無であり、仙台と大阪という距離的な遠さであり、育児経験の有無といった生活に関わる差異でもあったかもしれない。

ひるがえって、僕の本ではそれはひとり出版社という経験であり、なによりがんという病気の経験の有無ということになる。

そのようないくつかのギャップごしに、本を誰かに届けることができるか。できると信じるとして、そのためにもっとも有効なトーンや文体をどう獲得していくか。

なにも大袈裟なことを考えているわけではないが、しかしせっかく本を作るのだから、ひとりでも多くの人に届いてほしい。「遠い未来、遠い土地にも届くメッセージ」を作る努力をしたい。


誰が言ったのか知らないが、「人間は誰でも生涯に1冊、本を書くことができる」ということばがある。最近、自分の本を準備していて、そのことを実感している。

僕たちは歴史的な人間であり、みんなそれぞれにライフヒストリーを持っている。それは多くの場合、個人的でごくささやかなもののように見えるが、実は生きていることの本質はそのささやかな私性(わたくしせい)にこそあるのではないだろうか。僕たちは考えようによっては長く、でも実際にはごく短いそれぞれの人生を生きる。そして短いとはいえ、そこには常に歴史の蓄積がある。それは私的であると同時に、史的なものだ。

その他者の私的歴史に触れるとき、僕たちはみな等しく歴史のなかを生きていることを実感する。その他者が決して交わらない無名の人であればあるほど。


『わたしは思い出す』を読むことは、そのようなことを感じさせてくれる読書体験だった。



ついでに松本さんが触れていたジョー・ブレイナード『ぼくは覚えている』も読んだ。

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