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  • 執筆者の写真みずき書林

カラ元気の出し方


若いころは、人生には中長期的なビジョンに裏打ちされた、一貫した気分や気の持ちようがあると思っていました。

漠然とではありますが、そういう生き方のトーンのようなものを一定に保つことが、きちんと生きるということだと考えていたふしもあります。


しかし、この歳になってみると――いや、年齢は関係ない。関係あるのは、ひとりになって米塩の資を得てみようと環境を変えてみたことです――毎日の気持ちは移ろいやすく、そして日々をどのような気分で過ごすか、というのは意外と大切です。

昨日も明日も変わらないような一定のトーンというのもいいでしょう。そういう気分が安定して維持できるのなら、それはそれで貴重なことです。昨日通りの今日が過ごせて、明日も同じように過ごせると思えるなら、幸福なことだと思います。

僕も基本的には、そういったトーンの中で暮らしています。

なにも波瀾万丈の生涯を送っているわけではまったくありません。


大切であり避けがたいのは、日々の中の細やかな気持ちの浮き沈みです。

そういった心の震えのようなものを無視することは困難です。

明日になったらビターな気分も変わることはわかっています。たとえいま苦い思いを抱いていても、数カ月経ったらまるでリアルなものではなくなっていることも、経験的に知っています。

とはいえ、たとえカラ元気のようなものであったとしても、やはりその日を明るく過ごして眠りにつく気持ちは、日々に必要です。



ほろ苦い、あるいはもっと苦しいような思いを感じたときに、その気分をどう持ち直すか。

これは日々を生きていくうえで、それなりに大事なことに思えます。

「大人は自分の機嫌は自分でとる」とはよく言われることですし、基本的にその通りだとも思います。大人は自分の機嫌は自分でとる。

しかし、純粋に内発的な要因だけで自分の機嫌をとるのは、徳高い高僧でもなければなかなか難しい。やはり外部要因というのは必要です。なんらかの外発的なアクションを受け取って、気持ちを上向かせるように自分自身を持っていく、というのが多くの人が心中で行っている操作ではないでしょうか。



面倒なことを書いているようですが、それほど込み入ったことでもでもありません。

要は、外部要因によって気分は上がったり下がったりするし、それは日々暮らしていく中でかなり大切なことだ、という当たり前のことです。

では外部要因とは何かというと、つまるところ、僕にとってそれは人です。



真剣だけど深刻ではなく、不安は感じていても不満ではない。やるべきことを楽しんでいて、やりたいことの生産性が高い。基本的に賢く、明るい。

こういう人を日々の態度として煎じ詰めると、〈考えついたアイデアを楽しそうに語る人〉ということになるのではないか。と最近しばしば思うことがあります。

楽しそうに、というところが、きっとだいじです。



そういった人の向日性を外部要因として、僕の一日が維持されていくような経験が、昨年春に環境を変えてみてからはとくに実感されます。

願わくば、僕も誰かにとってそのようにありたいとも思うのです。



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