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  • 執筆者の写真みずき書林

中長期的な理想と、直近の怒り

聖心女子大学で開催中の、


に行ってきました。

家から徒歩10分。もとJICAの施設があった場所です。


一番の感想を先に書いておくと、

個人の〈顔〉が見えるということがとても大事。

ということでしょうか。


気候変動・環境保全についての展示で、日常生活とオリンピックというふたつのコンセプトの展示がシームレスにつながっている構成。

(もうひとつ、特別展示の豊田直巳写真展 「未来への伝言~消される景色の中の消えない記憶~」もつながっています)



さまざまなパネル展示のなかに、キリバスの重量挙げの選手と、日本からは為末大氏のインタビューパネルが展示されていました。

為末氏は「スポーツは気候変動に対して解決能力はない」「アスリートと気候変動の接点は少ない」と語りはじめます。

しかし指導者になって後進を育て、その後進がまた指導者になって……というサイクルの中でのみ、そのスポーツは発達していくことができて、その世代を超えたサイクル作りは気候変動への向き合い方と同じことかもしれないという趣旨のことを言っていました。


それを読んでから隣のキリバスの重量挙げ選手のコメントに目を転じると、「スポーツは気候変動の影響を強く受ける」とはっきり言っています。

キリバスは、いま話題のナウルや、我が遠望の地・マーシャルの近く、赤道の島国です。

海面上昇によって家が浸水し、井戸が使えなくなり、生活用水の確保ができず、練習どころか生活ができない。

彼は「こういった問題は日本のような先進国が引き起こしている」と断言してもいました。そして自宅が海水で浸されている写真さえ添えているのです。


為末は時間をかけた文化の醸成について語っていて、キリバスの選手は喫緊の生活の問題を提起しています。

為末は中長期的な希望に目を向けていて、キリバスの選手には差し迫った危機感があります。

この違いは、個々の性格ということももちろんあるのかもしれませんが、やはり日本という恵まれた環境にある選手と、そうではない国を故郷とする選手の違いなのでしょう。


このふたつのパネルを並べたのは、取材し、プランした人の慧眼であろうと思います。


「気候変動とスポーツの祭典」というこの展示は、いうまでもなくオリンピックのことを視野に入れて企画されたのだと思います。

そして僕個人は、オリンピックには無関心、というよりも茶番劇を観る程度の興味しか持っていません。

もう少し穏当な言い方をすれば、オリンピック本体というよりも、それがもたらす歪みや揺らぎを眺めている、ということかもしれません。

たとえば、この企画にならって、

「ジェンダーとスポーツの祭典」

「コロナとスポーツの祭典」

「著作権とスポーツの祭典」

などという展示をしたなら、いずれもこの間の狂騒の数々とともに様々な問題提起を含んで実に興味深く、そして五輪自体には否定的な展示にならざるをえないはずです。


(余談ながら、「スポーツの祭典」という言い方にも、JOCだか組織委員会だかの強権が見て取れます。いま現在、ぼく自身もそういう本を作っているので知っているのですが、パブリックな展示や出版物では、特にお上のお許しを得ない限りは、「五輪」「オリンピック」ということば自体が使用NGなのです)


もはやオリンピック自体が――少なくとも此度の東京オリンピックは――SDGs的ではないのです。

どうしてもやりたければ、東京の小学校や中学校の校庭や体育館でやればいいのにと、本気で思っています。で、そこの生徒たちには優先的に見せてあげるのです。自分の母校のグラウンドを世界的なアスリートが走るなんて、夢のようじゃないですか。

そのほうがはるかに温かくて、人々の記憶に残り、国際的にも称賛される天晴れな大会になるでしょう。



……完全に脱線しました。話を戻します。


為末とキリバスの選手の視点の違いは、「環境問題」に対するふたつの流れを象徴しているのかもしれないと感じました。

つまり、わが国では、環境問題はちょっとおしゃれなイシューになってしまっているのではないか? ということです。

希望のある未来を創るために意識を高めていこうという動きが、どこか空回りしているような。

これは「暮らしから捉え直す SDGs / 気候アクション」のほうで森岡書店さんの一日を追った動画作品でも思ったことですが、自分の手元・足元からできることを着実にやっていくという行為自体が、なにか消費されていく危険性があるような。

(そういう意味で、森岡督行氏の動画作品もとても興味深いものでした。これについても書きたいことはたくさんあるんだけど(そもそも、最初はそちらをメインに書き始めたんだけど)、長くなりすぎるのでまたの機会にします)

いずれにせよ、為末氏のことばや、森岡氏の働き方が、クールでポリティカリー・コレクトなトレンドになっていく恐れがあるような気がしました。

誤解のないように言っておきますが、これは為末大氏や森岡督行氏を批判しているのでは断じてありません。

むしろ、自分自身の受け取り方の問題だと考えています。


為末氏が言うように、未来に理想を持つこと。森岡氏が言うように、それを楽しんで、自分のやれる範囲でやること。

これはベーシックに大事なことです。それでいいんだ、と思います。

というか、地球温暖化とか気候変動とか、そんな世界規模の物事について、たんなる個人であるわれわれに、ほかにできることなど何もないでしょう。


しかしその一方で、もうひとつの流れとして、キリバスの人の自宅は海面上昇で浸水していて、井戸水は塩分濃度があがって飲めなくなっていて、彼らはそれを「日本人や先進国のせいだ」と言っているわけです。


いまどき、大量の食べ残しをしたり、ゴミの分別をしなかったり、排気ガスをたれ流したりするのはカッコ悪いことです。

でも、エコバッグを持っているのも、オーガニックな野菜を食べるのも、環境にやさしい洗剤を使うのも、別に特にカッコいいことでもおしゃれなことでもない。普通のことだ。

そのような意識を醸造することが大事なのかもと、展示を見て思いました。


いや、そうじゃないな。

むしろ、おしゃれ感を出すのもいい。それがかっこいいことだという空気を作っていくのもいい。われわれはライフスタイルを重んじるがゆえに、いまはそういうことが必要な時期なのでしょう。

為末氏のように考え、森岡氏のように暮らすことを、もっともっと推奨していい。

でも、その裏に、まったくおしゃれじゃない現実をしっかりとくっつけておくことも必要かもしれないと思いました。


つまり、かっこよくて素敵なライフスタイルを奨励すると同時に、せめてスタバでマイタンブラーでも使わないと、どこかの誰かの家に海水が流れ込む。どこかの誰かがマジで怒っている。ということを、がっちり見せていくこと。


キリバスの重量挙げのお兄さんは、われわれには――ぼくにも、あなたにも――とても耐えられないようなハードな努力をしている。

でもどんなに屈強でも、家を抱えあげて高台に持っていくわけにはいかない。そもそも、高台がなくなりつつある。

その人は金メダリストで、この世界でもっとも力持ちの男だけど、そんな彼にもどうしようもないことがある。


それは個人の力ではどうしようもない。

だからこそ、衆の力を集めなければならない。

正直にいうと、ぼくは衆の力に希望を抱くには、あまりに個人的で狭量な人間かもしれない。

でもそんなぼくでも、ひとまず手元・足元のことから始めるにやぶさかではない。

エコバッグを使っているのは、人からもらったからだ。料理をするときにゴミはなるべく出さないようにしているのは貧乏性だからだ。愛用している石鹸は、心身にハンディキャップをもった人が作っているやつだけど、それは皮膚が弱いぼくにたまたま合っていたからだ。

ぼくはまったくカッコいい人間ではない。自他ともに認める、非モテ・非おしゃれな人間である。

でもそういうあたりから意識していくしかないだろう。


為末大とデイビッド・カトアタウの顔を覚えておくこと。

為末の中長期的なポジティブさと、デイビッド・カトアタウの「この問題は日本のような先進国が引き起こしているのです。私たちではありません」ということばを覚えておくこと。


どうやら、世界一力持ちの男が、われわれに激怒しているらしい。そんな男に怒られたくはない。

だったらせめて、せいぜいかっこつけて暮らすことにしよう。



そんなことを考えながら展示を見ていました。



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