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  • 執筆者の写真みずき書林

小泉明郎《Battlelands》が描く〈生かされている〉人びと

更新日:2019年8月31日


小泉明郎「Dreamscapegoatfuck」を観てきました。


映像インスタレーション《Battlelands》(2018)とVRインスタレーション《Sacrifice》(2018)、それに立体作品《Sleeping Boy》(2015)で構成されています。


今日観たのは《Battlelands》。


作品の構造については、長くなるので詳しくは書きません。

隣り合ったふたつの画面に、それぞれ別の映像がランダムに流されてループしています。

映像はすべて主観ショット。

人物の眼の位置にカメラを取り付け、彼らの眼に映ったものを、我々も観ることになります。

彼らのキッチン、ベッドルーム、廊下、居間、彼らが立っている町の一角、車窓の風景などが映し出されていきます。

〈彼らの眼に映ったもの〉と書きましたが、かならずしも正確ではありません。

彼らは目隠しをして、そういった場所を手探りで歩きます。

そして、そのような住み慣れた場所をゆっくり手探りしながら、戦場で経験したことを語りはじめます。

彼らはみんな、イラクやアフガニスタンで戦った兵士たちです。



我々は彼と同じ目線から、居心地のよさそうなリビングルームを見ています。

彼はソファーのあたりを指さし、そのあたりに怯えきった少女がいてこっちを見ていたと言います。

あるいは我々は、岩場に立ってサンディエゴの街を見下ろす彼の視線を共有します。

彼は岩場の隅を指し示して、そこにいた焼け焦げた男の死体から、家族写真を見つけたと口にします。

「その少女からみたら俺は野獣だった。くそ。ああ……。俺は野獣だった」男は言います。

「黒焦げの男が娘と一緒に笑っていた。みんなbig smileだった。俺はその場に泣き崩れた」男は言います。



この揺さぶられ方は、ちょっとうまく書けません。

などとは書きたくないので、なんとかことばにしようとします。



いかにもアメリカ的な風景。平凡なキッチン。生活臭のするベッドルーム。日差しの強い街並み。車の行きかう殺風景な道路。

そんな彼らが見ている景色を見ながら、我々は彼ら彼女たちの、戦場での異様に緊張した、凄惨な体験を聞くことになります。

ふたつの画面に、複数の視線と声が、次々と入れ替わります。


彼らは〈生かされている〉というふうに感じました。

彼らが生きている、というふうにではなく、彼らは〈生かされている〉と感じました。

もちろん、彼らは主体的に生きています。多くの普通のアメリカ国民のひとりです。

でも彼らの視界を共有し、彼らの語りを聞くときに、なぜか、なにものかに〈生かされている〉ように見えました。

彼らが志願兵なのか、やむを得ない事情で戦地に行ったのかはわかりません。しかし理不尽な経験を強いられ、個人ではどうしようもない状態に晒され、、絶対に忘れられない体験をしてしまい、それでもなお、彼らがいま見ている風景はきわめて〈普通〉です。それぞれの内奥にどのような葛藤や後悔や哀しみを抱いていたとしても――そしてときに自ら命を絶つ人がいるとしても――彼らは一見普通に暮らし、生活しています。


ある男は、戦友が語ったイラクでの体験を話します。

テロ容疑である家を捜索し、家族全員を一階に集めます。調査して問題なさそうだったので出ていこうとしていたとき、二階からAK-47をもった息子が駆けおりてきて、戦友たちはとっさに銃を撃ちまくります。息子は階段から転げ落ちてきて、家族の前で死にます。

戦地から帰ったある日、戦友の妻から電話がかかってきて、戦友が自殺したことを伝えます。

「交通事故か何かであってほしいと願った。でも自殺だった。そう伝えられてからのことは、憶えていない」

画面には、うつむいた男の所在なさそうな手の動きだけがずっと映っています。


右の画面には、男の子どもたちが映っています。まだ幼い子どもたちを公園で遊ばせています。

左の画面では別の男が、自分のリビングルームを歩きながら、基地が激しい攻撃を受けたときの、緊迫した夜について語っています。

右で綺麗な打ち上げ花火が上がります。左では爆撃の様子が語られます。

次々とあがる花火の轟音が聞こえます。

(忘れてしまわないうちに、見た情景や聞いた話をぜんぶ書き留めておきたくなります。忘れてしまわないうちに。そういう作品なのです)


電話。公園。子ども。リビングルーム。打ち上げ花火。

何も変わらないし、何も変わっていない。ように見えます。

彼らが誰かを殺し、その結果自分は生き延びたことに――彼らが〈選ばれた〉ことに――善悪や価値判断はまったく含まれていません。彼らは正しいから生き残ったわけではない。そして同時に、彼らが生き残ったことを、悪と断じることもできません。彼らはギリギリの状況でなにかを選ばされ、その結果、なにものかに選ばれたのです。

彼らのうちの多くが、そのように〈生かされて〉しまったことに、激しい良心の呵責を抱いています。想像するしかないですが、おそらく何げないときに、普段の暮らしのなかで、日常が暗転して心臓を鷲掴みにされるような時間があるのではないでしょうか。

それは単純に、善いことではありません。誰であれ、そのような人生を生きなければならないことは、善しとされるべきではない。

誰かを犠牲にして、結果的に自分は〈生かされている〉。ふとしたときにそんな思いにからめとられ、そこから逃れられない生は、耐えがたく苦しいものになってしまいます。

ここに実際に、リアルに、そういう生を送っている人たちがいます。


彼らは、国家や戦争のシステムといった抗いがたい力によって、暴力をふるうことを強いられ、ギリギリまで追い詰められ、他者に暴力をふるい、生き残る。そうしなければ生きることができなかったから。

そういう人が、実際に、リアルに、厳然と生きている。ごく普通の隣人として、いま間違いなく近くに暮らしている。

誰にも絶対に知りえない理由によって彼らは〈生かされていて〉、そのことは我々自身にも起こりうる。我々の大事な人に、起こりうる。


そのとき、どうする。


そのようなことを考えました。


***


VR作品《Sacrifice》は予約が必要で、席はすべて埋まっていたのですが、幸運にも明日のキャンセルがひとつあると教えてもらい、明日あらためて観に行くことにしました。

こちらは、兵士たちとは逆の立場、つまり米兵に家族を全員目の前で殺されたバグダッドの少年の目線を、共有することになります。

今日観た《Battlelands》はおそらく、鏡像の片面です。



明日は、どういう感情になるのか。

ここで書いたようなことばは、どういうふうに変化するのか。

ふたつの作品を同時に観るのではなく、一度日常のなかに戻って、自分の主観を取り戻したうえでもうひとつの作品を観ることになったことが、どういう影響を及ぼすのか。

自分自身の感情を注意深く見守りたいと思います。



なお、立体作品《Sleeping Boy》(2015)は、小泉明郎さんの息子を造型したものです。

息子の顔や手足が、ばらばらに、不自然に切り離され、つなぎ合わされたかたちで、地面に置かれています。ひとつの足は、壁際の離れたところに転がっています。

僕は数カ月前に、作家に取材する機会があり、その際に息子さんとも会ったことがあります。

一緒に「おしり探偵」の絵本を見て、アイスを食べました。物怖じしない、声の大きい、とても元気で活発な子でした。

粘土で作られた顔は、彼にそっくりでした。

そういう技術をもった父親が作っているのですから当たり前のことではありますが、ものすごくよく似ています。

真っ白で、静かに目をつぶっていて、手足や胴体と切り離された子どもは、苦しくなるほど彼に似ていました。





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