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  • 執筆者の写真みずき書林

原田豊秋氏について


かつて日本兵としてマーシャル諸島にいた、原田豊秋さんという方の足跡を探しています。

自分自身の備忘録も兼ねて、これまでの展開とわかっている情報を整理します。



〈なぜ探しているのか〉

1945年4月、マーシャル諸島ウォッチェで日本兵・佐藤冨五郎さんが亡くなりました。

栄養失調による餓死でした。

彼が遺した「佐藤冨五郎日記」というものがあります。

日本を出港してから餓死する前日まで、約2年間にわたって綴られた日記です。

この日記を元にして、映画監督の大川史織さんが、

映画『タリナイ

書籍『マーシャル、父の戦場―ある日本兵の日記をめぐる歴史実践』

を制作しています。

この日記を日本まで持ち帰り、宮城県亘理の遺族のもとに届けたのが、冨五郎さんの戦友であった原田豊秋さんです。


戦後、日記は郵送で遺族のもとに届けられました。

そこには原田さん直筆の手紙が添えられており、手紙の現物は日記とともに佐藤家に残っています。(手紙の本文はこちらで読めます)

しかし長い年月の中で、手紙が入っていた封筒は失われ、原田さんの本名および当時の住所は失われていました。


大川さんは日記の解読を進めると同時に、原田さんを探しはじめますが、2018年に映画が公開され、書籍が刊行されたのちも、原田さんの消息はわからないままです。


マーシャル諸島で餓死した冨五郎さんの日記が74年後に全文解読され、映画と本になった一番最初のきっかけになった人物が、原田さんです。

大川さんと、冨五郎さんの遺児・勉さんは、原田さんの戦後の足跡をたどり、ご家族を見つけ出すことを願っておられます。


佐藤冨五郎日記(右上の2冊)と原田さんの手紙


〈ふたりの原田さん①―豊秋さんと文三さん〉

前述のとおり、原田さんを辿る手がかりであった手紙が入っていた封筒は失われています。

そして、冨五郎日記の中には、もちろん原田さんへの言及がたびたびあるのですが、住所など手がかりとなる情報は記載されていません。当時の兵士同士の呼び方として自然なことですが、「原田」と名字の記載があるだけで、下の名前もわかりませんでした。


そこで大川さんはまず、原田さんの名前を確認します。

冨五郎さんは海軍第64警備隊に所属していました。

アジア歴史資料センター(アジ歴)で同隊名で検索すると、「生存者給与通牒控綴」がヒットします。

戦後間もない45年8月20日に制作された、生存者の給与について記した記録です。復員船の到着を待つ間に、主計大尉北島秀治郎なる人物が作成した書類です。

この書類によると、警備隊の生き残りで原田姓はふたりいました。

原田豊秋

原田文三

です。

・日記中で原田さんのことを「戦友」と呼んでいることから、同じ部隊に所属していたと思われる。

・同じく日記中で原田さんを「同年兵」と呼んでいる。

・原田さんの手紙に、お互い妻子がいたことが記されている。

以上から大川さんは、ふたりのうち豊秋さんが、探している原田さんであると推測されました。

(詳細はこちらをご覧ください)



〈わかっていること〉

次に、日記・手紙および「第六十四警備隊功績整理簿」等から、原田豊秋さんについてわかっていることを整理します。


1.日記が遺族のもとに届いたのは、昭和21年(1946)12月ごろ。そのころ、原田さんは山梨に住んでいたらしい。

本籍地も山梨(山梨県東山梨郡春日居村熊野堂)である。


2.日記によると、原田さんは冨五郎さんと「同年兵」と記されている。となると明治39年(1906)頃の生まれである。


3.マーシャルでは、冨五郎さんと同じ第64警備隊に所属。

二等兵曹という階級も同じで、7.7mm機銃射手であった。


4.栄養失調のため、最初の病院船氷川丸に乗って1945年9月25日に内地へ帰還している。

召集解除の日付は昭和20年10月27日。


5.山梨県の軍人軍属名簿によると、明治39年(1906)10月1日生まれ(ちなみに冨五郎さんは同年3月4日生まれ)。


以上が原田豊秋さんについて判明していることです。


なお、大川さんは原田さんの本籍地の住所をたよりに、春日居郷土館・小川正子記念館を訪ねています。

また、近隣の墓地をめぐって原田姓を探すという実に地道な作業もなさっています。

残念ながら、これらの手続きでも、有力な情報は得られていません。

もちろん、関連遺族会であるマーシャル方面遺族会に、原田さんに関連する方がいらっしゃらないのも確認済みです。



〈ふたりの原田さん②―農学者の原田さん〉

さて、ネットで「原田豊秋」で検索すると、同名の農学者がいたことがわかります。

『食糧害虫の生態と防除』(光琳書院、1971年)などの著作と、多くの論文がヒットします。

この人物が、探している原田さんと同一人物なのか、現時点では判然としていません。

そこで、このふたりの原田さんが同一人物であるかどうかが、目下の焦点となっています。



以下、便宜的に、探している原田さんを「原田(本)さん」、農学者の原田さんを「原田(農)さん」と記します。

(このあたりの記載は、堤ひろゆきさんが調べてくださり、大川さんと僕にシェアしてくださったレポートに大きく依拠しています)


上述書の巻末著者略歴によると、


・原田(農)さんの出身地は「島根県(愛媛県宇摩郡別子にて出生)」。

・生年は明治39年10月14日。


これらの情報は、山梨が本籍の原田(本)さんと食い違い、誕生日も別です。

しかし、別人と断じてしまうのも早計かもしれません。

出身地と本籍地が異なる可能性はありますし、なにより誕生日がわずか13日違いで、かなり近いのです。

10月1日と10月14日。

どちらかがミスプリントあるいは誤記をした可能性もぬぐえません。


いっぽう堤さんは、原田(農)さんが勤務していた農林省米穀利用研究所の職員録で、原田(農)さんの1943年(昭和18年)当時の住所を突き止めました。


・原田(農)さんの1943年の住所は「豊島、巣鴨、五ノ一〇七二」。


原田(本)さんの当時の住所がわかれば、ふたりが同一人物だと判断できますが、残念ながら不明です。

しかし、佐藤冨五郎さんが応召前に椎名町に住んでいたことがわかっています。近所です。冨五郎さんが原田さんに日記を託したのは、同年兵で仲が良かったことに加えて、家が近所だったことも影響したのではないかと想像したくなります。


なお、原田(農)さんは本の奥付に学歴・職歴は記していますが軍歴は記しておらず、応召されていたかは不明です。

晩年は農林省食糧研究所(1947年に米穀研究所から改組)を退職し、国際衛生(株)に再就職しています。

大川さんは国際衛生(株)にも問い合わせていますが、まだ有力な情報は得られていません。

また、大川さんは映画『タリナイ』で受けた取材の中で、偶然農林水産省の図書館勤務だったライターさんと知り合いました。そのライターさんが当時を知る存命の方に問い合わせくださり、食料研究所についての情報を得ることができました。

当時を知る方がご教示くださった概略は以下のとおりです。


・食糧研究所は深川の旧浜園町にあった。

・原田(農)さんは昭和28年には、「害虫室長」だった。

・戦争に行っていたかはわからない。

・言葉に特徴があったので、東京の人ではないと思われる。

・字は、大きくて太い字。

・30年くらい前に亡くなり、江古田斎場で葬式があった。


この方に原田さんの手紙を見てもらったのですが、残念ながら「筆跡は違うような気がする……」という印象で、確証は得られなかったとのことです。


以上、ふたりは違うといえば違うのですが、かといって決定的な証拠が得られているわけではないのです。



〈参考資料など〉

情報が錯綜していますが、現状でわかっていることと、ふたりの原田さんの関係をまとめてみました。

引き続き調査は続きますが、長い歳月が経っており、ことはなかなか簡単ではありません。

ちなみに、堤さんは国会図書館所蔵の山梨県内の電話帳を用いて、昭和37~61年(1962~1986)の原田豊秋を調べるという膨大な作業も行っています(原田豊秋名での登録はなしでした)。


さらに、年月に加えて、個人情報保護が大きな壁となっていることも書き添えておきます。

大川さんは原田さんの親族ではないので、官公庁などではどのように事情を説明しても、情報を開示してもらえないのです。

個人情報保護が大事なのはよくわかりますが、こういうときには事態を困難にします。

日記を遺族のもとに届けてくれた戦友の足跡を知りたいだけなのですが。



以上は、大川さんが膨大な時間と労力をかけて調べ、そこに堤さんをはじめ多くの方が協力した、原田さん探しの現在地です。

僕は何もしていないのですが、書籍を刊行した版元として、原田さん探しの情報を受け取る窓口役をやっています(先日も、マーシャルに出征していた同僚を持つ未知の方からメールをいただきました)。

そのような関係から、今後この件に関心を抱いてくださる方にとって少しでも有益な交通整理ができればと思い、皆さまの調査結果をまとめた次第です。

何かご存知の方、調査のアイデアをお持ちの方がいらっしゃれば、どのようなことでも結構ですので、小社まで情報をお寄せください。


以下にあらためて参考資料をまとめました。


大川史織監督『タリナイ』(ドキュメンタリー映画、春眠舎、2018年)

大川史織編『マーシャル、父の戦場』(みずき書林、2018年)

同書所収、「原田さんの手紙

大川史織「佐藤冨五郎日記を繙く―70年の時を超えて」(アジ歴ニューズレター第27号、2019年)

生存者給与通牒控綴」(アジア歴史資料センター)

堤ひろゆき「原田豊秋氏についての調査結果」①および②(未公開、※ご覧になりたい方はご連絡ください)


以下のテキストもあわせてご参照ください。


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