4月18日(日)のウェビナー
「戦争体験継承のダイナミックス―新刊『なぜ戦争体験を継承するのか』と対話する」
当日、おそらく一番の焦点のひとつであった、平和博物館と遊就館について、ひとつ前の記事に長々と感想を書きました。
当日の質疑応答ではそのあたりに議論が集中したのですが、それ以外にちょっと備忘録として残しておきたいことがあるので、重ねて書きます。
このエントリーでちょこっと書いておきたいのは、前半の今野先生の発表で触れられていた、石原吉郎についてです。
例によって鬱陶しい長さになりそうな予感です。
そして例によって、うまく書ける気がしませんが。
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今回のウェビナーでは、考えさせられることがいくつかありました。
それを端的に言ってしまうと「うまく伝わっていない……」という思いです。
誤解を恐れながらさらに言い換えると、この本に「あること」について触れるよりも、「ないこと」についてが主に語られた、という思いでしょうか。
もちろん、本をどのように読むかは、読者それぞれの自由です。
まったくもって100%自由に読んで感想を交換し合えるのが、本というものであり読書というものです。
それは重々承知のうえで、誰を批判するつもりもなく、それでもなお、作った側の編者や著者が本に込めた想いというものがあり、編集者としてはそこに移入せざるをえないわけです。
そのような感情移入と、「うまく伝わらなかったかもしれない……」という反省の一端は、先の記事に書きました。
それを書いた後に、会の冒頭で今野先生が石原吉郎を引いたことが、じわじわ効いてきました。
この石原吉郎については、その後の質疑などではほぼ言及されなかったのですが、ぼくとしては実に興味深いつながりを作ってくださったと感じるトピックでした。
ぼくは芸術的な感受性が豊かな人間ではありませんが、とりわけ詩には苦手意識をもっています。
たとえば散文や音楽についてはそれなりに身銭を切ってきたのですが、詩についてはそこまで時間と金を費やしておらず、適当なリテラシーを持っていると言える自信がありません。
とはいえ石原吉郎は、ソ連の収容所に抑留されていたというプロフィールから、ずっと気になる作家ではありました。
そして彼は主に「伝わらなさ」「思いをことばで伝えることの無理」について詠っているように思います。
(このあたりの解釈は自分勝手なもので、石原のファンや詩の読み巧者から言わせると見当違いなことを書いているかもしれません。が、それこそ読者の自由、ということで読み流してください)
今野先生のレジュメには「望郷と海」という本が紹介されていました。
その同名エッセイのなかで、裁判によって重労働25年の判決を言い渡された瞬間のことをこのように書いています。
「故国へ手繰られつつあると信じた一条のものが、この瞬間にはっきり断ち切られたと私は感じた。それは、あきらかに肉体的な感覚であった。このときから私は、およそいかなる精神的危機も、まず肉体的な苦痛によって始まることを信ずるようになった。「それは実感だ」というとき、そのもっとも重要な部分は、この肉体的な感覚に根ざしている」
たとえばこのような文章を読むときに、我々はほんとうに石原が「実感」したことを理解できているか。というと、否と答えることになります。
そうですよね?
この文章を読んで――それが達意の文章であろうとなかろうと――「わかった。実感した」と言うこと自体が、その実感をまるで理解していないことになるはずです。
実際、不当裁判で25年の重労働判決を言い渡されたことのないわれわれの実感としても「理解できる」とはとてもいえませんし、また石原自身もそのように伝わることを、まったく期待しておらず、その「伝わらなさ」そのものの周りを旋回し続けているように思えるのです。
「失語と沈黙のあいだで」という、より直截なタイトルのエッセイでは、以下のようにその「伝わらなさ」について書いています。
「ことばについて、ことばで語れば語るほど、ことばそのものが脱落して行くという状態を、私たちはもう経験しすぎるほど経験しています」
***
(いまここに書こうとしていることは、『なぜ戦争体験を継承するのか』という本の内容についての話ではなく、ウェビナーでの議論に対する意見でもありません。
ことばを用いた本を作る、ということに対する、単なる雑感です)
『なぜ戦争体験を継承するのか』と同時に作っていた『なぜ戦争をえがくのか』では、画家や漫画家や写真家、彫刻家が多数登場するにもかかわらず、あえて図版を一切用いず、ことばだけで最後まで押し通しました。
その思いは、大川さんが「はじめに」で書いているとおりです。
あるいはこの『なぜ戦争体験を継承するのか』の小倉先生の論考では、高校生たちの描いた原爆の絵を、本のサイズに許されるかぎりの大きさで掲載しました。
このふたつのデザインは対極ですが、根っこの部分では同じ考えで行っています。
つまるところ、ことばへの信頼と、ことばへの不信ということになるでしょうか。
(このふたつのうち、前者が大川さんの本に、後者が小倉先生のケースにそのまま直結しているわけではありません。「ことばだけで編集する」という気持ちの中にもことばへの限界の念はこもりますし、図版と重なることでことばがより活きてくる、ということもありえます。念のため)
こういう商売ですから、本やことばに愛着があるのは当然なのですが、とはいえ無条件に「ことば万歳」と言えるわけではまったくありません。
だからアートの本なのにことばだけで編む、という編著者のチャレンジは素晴らしいものと思いましたし、まったく同じ感情によって、高校生の描いた絵は可能な限り大きく入れないとダメだと思いました。
そしてそのうえで、そういった著者たちの意図や願いがうまく伝わらないこともある。そのことは――ものすごく当たり前のことを書いていて恐縮ですが――受け入れないといけないし、反省もしないといけません。
……冒頭に、「この本に「あること」について触れてもらえず、「ないこと」についてが主に語られた」と書きましたが、ここに至って、読んでくださった方に対して、ないものねだりをしていたのは自分のほうだったと気づくことになりました。
これらの本は僕の誇りであり(願わくば、編者や著者の方々にとってもそうでありますよう)、そこに寄せられた声も、これから少しずつ、真摯に本の中に沁み込ませていければと思います。
と、石原吉郎の本をめくっていたら、面白い詩がありました。
位置
しずかな肩には
声だけがならぶのではない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備の空がついに撓み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である
今野先生のレジュメで引用された「私は告発しない、ただ自分の〈位置〉に立つ」ということばとも共鳴しているようです。
石原がどういう意図で「敵」「右」「ひだり」といったことばづかいをしているのかはわかりません。
例によって、僕が盛大に誤読している可能性も高いでしょう。
でも、先日のウェビナーに代表されるさまざまな議論の場について、あるいは体験と未体験の差について、加害と被害について、さらにことばによって本を作るということについて、この詩はなにやら示唆に満ちているような気がするのです。
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